あれは大口さんだ。

大井町の雀荘のマスターの名前だ。思い出そうとして思い出せないことがある。最近は多すぎる気もする。僕は大口さんのことを、ではなく。小森のことを書きたかったのだ。しかし、小森のことは、なかなか書き出せずにいる。呼び出すこともできない。

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クリスマスの約束のナレーションが斉藤由貴ではなかった。

僕は斉藤由貴のナレーションが好きだったのだ。第一回目からずっと彼女だったのに。クリスマスの約束は好きな番組だったのに。理由なんかはっきりしている、彼女の声は僕の好みなのだ。顔もだ。小田和正なら大人の事情などすっ飛ばせる力を持っていると思っていたのに。彼も大したことはなかったということだ。

熊木杏里が出演したことは評価できる。彼女の歌を僕は好きなのだ。顔もだ。小田和正も歳をとったものだ。僕は彼の歌を聞きたいのだ。ゲストの歌などどうでもいい。彼が若手を育てている、若手を評価している、若手とつきあっている・・そんな姿をみせてくれる必要はない。そう思う。

初期のこの番組は、ずっとそうだったけれど、彼ひとりで歌っていたわけで・・・その空気がとてもよかったのに。しゃべりの上手でない彼はメモを見ながらしゃべっていたし。自虐的に傲慢だっだし。とてもよかったとても・・だ。

結局はすべてを見るわけだけれど・・・嫌いのではないけれど。クリスマスの約束、来年も楽しみだ。

カミュはメモ書きを残した

「二人の女友達・・・二人とも大変症状が重い。しかし一人は神経を病んでおり、したがって、いつでも回復は可能である。もう一人は末期の結核であり、回復の見込みはまったくない。」彼の日記は創作のためのメモ書きだから、この一文は私の気分を重くする。彼がこの一文を書いたのは1935年の5月だ。

結構な重症患者や

年長のみなさんが僕の進路をあけてくれること。僕の車いすに場所を譲ってくれること。どうしたことだ。ぼくはそんなに重篤な病人なのか。あるいはそう見られているのか。それはつらい。それは驚きだ。・・・などと思った。病院内でのできごとだ。

 

車いすから眺める風景は

その場面の背景や景色や小道具や・・そして登場人物たちは、これまでとは異なる不思議な雰囲気をもっている。僕が、それらの、彼らの視線を感じすぎているのかもしれないけれど。

出不精の僕を引っ張り出してくれるのは、いつも彼・・田原君だ。

今度はオペラに誘ってくれた。故あって、引き籠もりがちな僕を引っ張り出してくれるのは、今回も彼だ。彼自身がちょっと出演するのだと・・・理由をみつけてくれたのだ。社会にとって何の役にも立たない「プー生活」の僕を社会と繋いでくれる数少ないLINEのひとつだ。

高校生の頃。彼はドストエフスキーを読んでいた、「虐げられた人々」だった。無駄に長い前置きのロシア文学を、だ。感動して眠れないと感想を語っていた。周囲に他にドストエフスキーを実際に読んでいるヤツなどいなかったから、まして、彼は感動したと言ったから。そんなこと口には出さなかったけれど「彼は信用できるヤツなのだ」と高校生の僕は思った。ドストエフスキーが、吉本隆明が恥ずかしかった頃のお話だ。むかし話だ。

僕は無駄に長い前置きの小説が昔から好きなのだ。

島君はときどき、いいことを言う

いつもは、ふざけた野郎だけれども。

下山の途中でツァラトゥストラは森の隠者とすれ違う。別れたあとで彼はつぶやくのだ「あの聖者は、もう神が死んだということを知らないのか」と。

島君はツァラトゥストラと似ているのだ。顔も似ているような気がする。僕はツァラトゥストラを見たことはないのだけれど。