ひとつきほどは視界を微少な虫が飛びます

濁りが消え,ちいさな文字もよく見える。視界と視力がもどった。本が読めるようになる。

anniversary・・友人たちがメールをくれるのがうれしい。30年,40年の時間を遡れる。歳をとったのだ。変わらないのは,自身の頭の幼さだけだ。身体:老人,脳みそ:中・高校生。

コロナ禍・・死にそうな友人は,まだ死んではいない。商売の話だ。仕事の話だ。死んでしまった友人の知人は,死んでしまったのだ。商売の話だ。仕事の話だ。

2年前には想像もしていなかったことだ。2年後のことは予想もできない。

思いがけない景色

近くを車で走ることはあっても,立ち止まった風景として眺めることはなかった。曖昧な記憶ではあるけれど,この広場・公園で中学の卒業式あるいは卒業式あとの何かがあったのだ。転入生で1年と4か月しか通わなかった日本一のマンモス校だ。

ながい時間が過ぎた。

ナンテの木は岩国にあった

台風10号が通り過ぎた(?)岩国にはむかしナンテの木があった。

僕は思い出した。50年近く前のことだ。岩国は山口にあって,桜島は鹿児島にある。昔からそうだ。今もそうだ。舞台設定は変わっていない。

しかし,ナンテの木が今もあの場所に立っているのかを僕は知らない。僕は知らない。あのとき,物語は唐突に終わった。けれど物語に第二章があるのは別に不思議なことではない。物語は終わっていない。かも知れない。

台風10号のニュースが,僕に思い出させたのは,ナンテの木を見上げていたかわいい女の子だ。その姿だ。

とても食べきれない量の贈り物

パッションフルーツ・・両親の田舎ではトケイソウという名で呼ばれていた果実で古くからある。最近はおしゃれな名で呼ばれる。ひとりでは到底食べきれない量だったので,先日弟に大量に持たせて,残りはそのまま忘れてしまっていた。買い物に出るのも面倒な土曜日。思いついていくつもいくつも食べた。腹がふくれるより,口がすっぱくなるのが先だ。

梅雨入りしたと発表されたとたん晴れ間ののぞいた土曜日にやったことといえばこれだけだ。。

カポーティを読み返してみても

手持ち無沙汰の日曜日に,トルーマン・カポーティを読み返した。「無頭の鷹」だ。世間は彼を天才だという。美文だと評価する。僕にはそれが判らない。カポーティをではない。彼を天才だという人々の才能が・・だ。僕には美文に思えない。感動させてくれるとは思えない。

正直にいうと,彼の文体は嫌いではない。むしろ小気味よくて好きだ。けれどさっぱりわからない。理解できない。どうしてこれが天才なのか。同じような気分にしてくれる作家は何人もいる。例えばフイッツジェラルドなんてもっとずっと理解できない。

雨の日曜日に,誰とも口をきかず,小説なんかをひらいている。暇なのだ。